くまちゃん
いつ失恋しても心が折れないように、この小説を選んだ。図書館の一角で角田光代著『くまちゃん』のあとがきを読んだとき、こんな小説を求めていたことに気がついた。
秘密の花園
大人の言うことが常に正しい訳ではないと悟ったのは中学のときだった。親、学校の先生、ニュースキャスター。そういう正しいことを教えてくれそうな人達だって間違えることがあるという事実に、私は少し悲しい気持ちになった。
三浦しをん著『秘密の花園』はカトリック系の女子校に通う3人の少女が語り手となり紡がれていく小説だ。最初の語り手である那由多も「どうして」を繰り返す。
みかづき
東京には空がないと智恵子は言う。高村光太郎の智恵子抄の有名な一節である。
【自作詩】誰のおかげ
「誰のおかげ」
永遠の詩01 金子みすゞ
サラバ!
「愛している」と今まで何度口にしたことがあるだろうか。
沼地のある森を抜けて
あれは小学校の国語の授業のときのこと。物の目線で詩を書くというお題が与えられた中、床の視点で書いた同級生がいた。床はみんなに踏まれて可哀想という詩の内容よりも、私には、床を一個のものとして捉えていることが印象的だった。鉛筆や消しゴムは一個と捉えやすいが、床は一個とカウントされるのか。何かの集合体なのか。床になる前はどうだったのか。そう考えると果てしなく迷路が続きそうな気がして、私は考えるのをやめてしまった。
約20年ぶりにこの問いを思い出させてくれたのが、梨木香歩の「沼地のある森を抜けて」だった。
物語は主人公久美の叔母時子の死から始まる。時子叔母は一族に代々引き継がれてきたぬか床の世話をしていた。ぬか床の「世話」というのは奇妙な表現だが、このぬか床は手入れが行き届かないと呻く、まさに奇妙なぬか床なのだ。独り身で両親を既に亡くしている久美は時子叔母の住んでいたマンションを譲り受けると共にぬか床を引き受けることになるのだが、あるときぬか床の中に複数の卵を見つける。そして卵からパンフルートを吹く少年や、眼だけが蛾のように飛び回るのっぺらぼうの女が孵り始める。
ぬか床の謎を調べる中で、両親の死も時子叔母の死もぬか床に関わることを知った久美は、ぬか床のルーツである自分の祖先の島へと旅立つ。
「自分って、しっかり、これが自分って、確信できる?」
ぬか床から現れた一人が久美にこう問いかける。ぬか床から出現した彼は、無性生殖で生まれたいわばクローンのような存在だった。彼は幼い息子を亡くした夫妻のもとに引き取られ、その息子として育ったのだ。
その彼に対して久美が、オリジナルでないことについてどう思うか尋ねたとき、逆にこんな質問を返されたのだ。
私は今まで、確固たる自分が存在し、人はそれぞれオンリーワンの個性があると信じていた。けれどそれは、有性生殖で生まれたからなのだろうか。無性生殖で繁殖するソメイヨシノの木々には個性などないのだろうか。
また、オンリーワンだから尊いのだろうか。同じ遺伝子を持ち、日本津々浦々を彩るソメイヨシノに人は感動しているではないか。
そもそも私達に確固たる自我は存在するのだろうか。毎日異物を体に取り込んで、排出するのを繰り返す。食べる物を変えると体型や体調が変化する。1年前の私と今の私では細胞が全て入れ替わっている。身体だけじゃない、心だって、外界からの刺激を受けて、自分の考えを形成していく。振り返ってみると、案外自分と外界の境界なんて、あってないようなものかもしれない。
また、私は一人とカウントするのが正しいのだろうか。床だけではなく、私も細胞の集合体に過ぎないのではないだろうか。例えるならオーケストラかもしれない。私という人生をこの団員で演奏した後は、解散して色んな生命体の一部になり、またそれぞれが音楽を奏でているのかもしれない。
生の不思議について考え出すときりがないのだが、私が読了後一番強く感じたのは、私は一人だけど孤独ではないということだ。
熱にうなされているとき、つらい出来事があったとき、ひとりぼっちで闘っているような孤独を感じることがある。けれどそんなときだって、私の体のあちこちの細胞は一緒に闘っているのだ。みんなで私という命を繋ぎとめようともがいているのだ。なんて麗しい共同作業なんだろう!
そう思うと、自分の体を労わってあげたくなる。今晩は早く寝よう。