開かれた魔法

本は開かれている。時を超えて、国を超えて。自分の枠を超えてどこまでも行ける気がする。そんな本の魅力にとりつかれた女子の書評ブログ。

サラバ!

「愛している」と今まで何度口にしたことがあるだろうか。

私は日本語だと記憶にないのでおそらく0回だが、英語では幾度となくi love you を伝えてきたと思う。友人へのメールの最後にlove from と綴るほど、愛はありふれた表現だ。
なのに、「愛している」というと日本語では大げさに聞こえてしまう。恋人や親子に限定されるような気がするし、そこまで他人を想えているのか自信もなく、無意識に他の言葉を選んでいる。

だから、30代半ばでほぼ無職の主人公歩に向けて姉の貴子が放ったこの言葉は鮮烈だった。
「つまり私は、あなたのことを、私すべてで愛しているということ」
これは異性に対する愛ではない。弟を想う気持ちを愛と呼んでいるのだ。無意識に敷かれていた日本人の「愛している」のハードルを貴子は軽やかに超えてくる。だからこそ彼女の言葉は、どん底の淵にいた歩を捉えて離さなかった。

西加奈子の『サラバ!』は歩の誕生から37歳に至るまでを彼の視点から描いた長編小説だ。イランで生まれ、エジプトのカイロで小学校時代を過ごし、帰国して大人になっていく彼の人生の中心には、いつも家族がいた。自分の感情に素直に行動する母、優しくて穏やかな父。特に姉の貴子と歩は対照的だ。「自分を見て!」という気持ちが強い貴子は、周囲とうまく溶け込めない。日本に帰国した際は英語混じりの自己紹介をして、公立の中学でういてしまう。一方歩は周囲の空気を読みながら行動できるタイプの人間だ。そのため転校を繰り返しても「目立たず、かといって忘れ去られることもない」絶妙な位置でクラスに存在することができた。もともと容姿が恵まれていたこともあり、中学からは女子にもモテた。
一見対照的に見える二人だが、一つの共通点があるように思える。それは、社会からの評価により自己を評価している点だ。歩は新しい環境を観察し、その空気に滑らかに溶け込めるように自分をうまく調節する。みんなが美人と思う子と付き合う。悪目立ちしないが、普通よりは少しグレードの高い男子として評価されたいと思っている。一方貴子はマイノリティであろうとしているが、マイノリティは社会のマジョリティに対して位置付けられるものであり、マイノリティという一社会的なポジションにいようとする行動自体が、社会の価値観に縛られているようにも思える。

社会からの自己評価を全く気にしない人なんていないだろう。けれど、この評価が自分の根幹にあるのは危うい。社会からの評価がぐらつくと、大事なピースを抜かれたジェンガみたいにあっという間に自分が崩れていく。それがアラサーになり薄毛に悩まされる歩に起きる。
人より少し優越した位置にいるかっこいい自分から、帽子なしでは外に出られない自分への転落。劣等感が彼の心を支配し、他人の目を避け、ひきこもらせていく様は痛々しく、だが恐ろしいほど共感できるものがあった。
どんどん狭い所へ追い込まれていく歩の心の窓を開けたのは、あの家族騒がせだった貴子の言葉だった。
「私はあなたを愛している。
  それは絶対に揺るがない。あなたを信じているからではない。あなたを愛している私自身を、信じているからよ。」
そしてこの小説のテーマとも言える発言をする。
「あなたの信じるものを他人に決めさせてはいけないわ」

このときの貴子は、社会からの評価にとらわれない自分の軸を見つけていたのだと思う。それは自分を信じることでしか得られないものだろう。
私が見て、話して、感じて、考えたこと。それを信じて突き進めばいいのだと彼女の言葉は教えてくれる。自分が自分を信じてあげなくて、他に誰が自分を信じてあげられるのか。

貴子は言う。
「私は私で必死だったけれど、あなたや家族のことを考えられないほど必死であったのは、私の非です。私には、余白が一切なかった。それは分かってほしいのです。
そして今の私に余白が出来たから、その余白の部分であなたを愛しているとは、思わないでほしいのです。
おかしな言い方だけど、自分に余白がなかったのは、自分には余白なんてないと気づくことが出来なかったからなのです。私には余白などない。私は私全部で私なのです。」

自分を評価するのは、親戚でも、上司でも、マスコミでもない。自分自身なんだ。今の私が過去の私を振り返り、かっこいい所も情けない所も全部受け入れる。自分を許せると、他人にも心が開け、弱い所を含めて他人のことも愛せるのかもしれない。
逆に、過去の私が今の私を見たらどう思うだろう?と想像してみるのもいいかもしれない。今の私に足りないものがきっと見えてくる。

そうやってたまに過去の私に会いに行きたい。そして言うのだ。サラバ、また会う日まで。