開かれた魔法

本は開かれている。時を超えて、国を超えて。自分の枠を超えてどこまでも行ける気がする。そんな本の魅力にとりつかれた女子の書評ブログ。

この世で一番美しい食べ物は鮨だと思う。

宝石のように鮮やかな色形。まるで芸術作品のような佇まいでありながら、生命の躍動感がぎゅっとつまっている。
口に入れると自然の恵みと職人技が絡み合って、ほどよく口の中で溶けていく。私は今生命をいただいているのだと深く感じる。
こんなふうに感慨深く鮨を味わうようになったきっかけは、岡本かの子の「鮨」だった。

鮨屋の一人娘ともよには気になる客がいる。古代エジプトの甲虫のついた銀の指輪をはめた手で上品に鮨を食べる50歳過ぎの紳士である。名を湊という。

「さほど(鮨を)喰べたくない時でも、鮨を喰べるということが僕の慰みになるんだよ」
なぜ鮨を喰べにくるのか、ともよに尋ねられ、湊は自分の子供時代を語りだす。

幼い湊にとって、食事は苦痛だった。異物が体内に入ると身体が穢れる気がして、水晶の置物に舌を当てて空腹を紛らわしていた。無理して食べても吐いてしまいどんどん痩せていく我が子に困り果てた母は、湊の目の前で自ら鮨を握る作戦に出る。新品の包丁やまな板を揃え、綺麗に洗った手を手品師のように見せながら一つ一つ握っていく。
白い玉子焼だと思いなさい、と言われて出されたいかの握りを、今まで玉子と海苔だけで生きてきた湊は恐る恐るつまんで口に入れる。すると口いっぱいに美味しさが広がって思わず笑みがこぼれる。次に口にした白身魚の鮨も難なくたいらげ、湊は魚が食べられたことが嬉しくて笑い出す。それは、「生きているものを噛み殺したような征服と新鮮な歓び」と描写される。そしてそんな息子の様子に満面の笑みを浮かべて、母は薔薇色の手のひらで次々と鮨を握る。その不揃いな形が愛らしく、そんな鮨を綺麗な形に整えて喰べる。美味しくて嬉しくて笑顔になる。
魚が食べれるようになった湊は見違えるほど美しく逞しく成長していった。


私達は日々異物を体に取り込んで生きている。素性の知れない人と付き合うのは抵抗があっても、どこでどう育ったか分からない魚はぺろりと食べてしまうのは、よく考えると奇妙かもしれない。
また、喰べることは残酷な行為でもあるかもしれない。おとぎ話で子山羊が狼に食べられてかわいそうと思うのに、スーパーで色とりどりの肉魚が並べられているのを見ても罪悪感を覚える人は少ない。
喰べるということがこんなにも生々しく生に直結していることを、私は今の今まで考えたこともなかった。
けれど、どんなに卑しくとも、残酷でも、私は生命を食べることをやめられない。それは美味しいという感覚が嬉しくて、心地よくて、生きる活力になるからだ。身体が喜んでいることを感じるからだ。
喰べることをやめられないなら、せめて私はありがとうの気持ちをこめて、いただきますと言いたい。家族や会社の上司に感謝するのも大事だが、自分のエネルギーになるもの達への感謝を忘れてはいけないと思う。

今日もいろんなものの力をエンジンにして私は生きる。


TUGUMI

吉本ばななのみずみずしい文体が紡ぎ出す物語は、荒井由美時代のユーミンの世界観を彷彿とさせる。そう感じるのは私だけだろうか。どこか懐かしくて、切なくて、甘酸っぱくて、やさしい。まっすぐで、儚くて、セピア色に溶ける景色。10代の頃心に流れていたメロディが古びたレコードから流れ出すような心地よさがある。

TUGUMI」は、海辺の町を舞台に、病弱で破天荒な美少女つぐみとその家族らと過ごした夏の日々をつぐみの従姉妹まりあの視点から描いた作品である。まりあは、母と二人で叔母(つぐみの母)の嫁ぎ先である山本屋旅館で育った後、大学進学とともに東京で両親と三人で暮らし始める。物語は大学生のまりあが山本屋旅館で過ごす最後の夏を、子供の頃の回想を交えながら描かれていく。

つぐみは、身体が弱いにもかかわらず、人並み外れた行動力を持つ少女である。特に彼女が本気で怒ったとき、そのずば抜けた行動力は発揮される。同級生から妬まれて皮肉を言われたときは学校のガラス戸をぶち壊す。姑息なやり方で弱い者の命を奪ったチンピラには、大胆な戦略を用いて半ば生き埋め状態にして、自らの行いを死ぬほど後悔させる。普通の人ならそこまではできない。なぜなら怒りはたくさんのエネルギーを消費し、その割には返ってくるものが少ないからだ。むしろ怒りを露わにすることで性格の悪い奴だと思われる恐れすらある。しかしつぐみの行動には、躊躇がみじんもない。だから惹きつけられる。そして皆彼女のとんでもない行動も許して、受け入れてしまう。
また彼女の言葉には嘘がない。だから皆彼女に心を開いてしまうのだろう。

普通の作家がつぐみを描いたら、太陽を直接見るみたいに眩しすぎたかもしれない。しかし吉本ばななの文体はつぐみの眩い光と淡い陰を巧みに表現し、彼女の鮮やかな魅力が心地よく読者に伝わってくる。お見事である。

つぐみの他にもう一人、魅力的な人物を紹介させてほしい。まりあの父である。
まりあと父が夏の海で一緒に泳ぐシーンがある。娘と一緒に泳ぐことにはしゃぐ父の姿が清々しい。大学生になる娘に対してここまで素直でいられる日本人男性はそういないと思う。
また、前妻との離婚が成立しやっと一緒に住めるようになった娘のまりあについて、これだけ長く離れて暮らしていれば恋人のようなものだと発言する。まるでイタリア親父である。
私の父はイタリアに通算20年以上住んでいるが、まりあの父のような言葉をかけてくることはないと思う。
だが、まりあの父と私の父には共通点がある。娘の話を丁寧に聞いてくれることだ。娘が今何に関心を抱いているか興味を持ち、娘との会話を楽しんでいることだ。それは当たり前と言われれば当たり前なのかもしれないが、自分と過ごす時間を心から喜んでくれている人がいることは、とてつもない幸運なのではないかと思う。
最近私は女性の左手の薬指に思わず目がいってしまう。結婚指輪が幸せの印のように思え、他人の薬指に光る指輪を見るたびに焦りを感じた。だがちょっと待ってくれ。私にはいつでも話を親身に聞いてくれる家族がいる。私がやりたいことなら何でもきっと応援してくれると思える家族がいる。形こそないが、私はもしかすると生まれたときから透明な指輪をしているのかもしれない。そう思うと自分の何もない指がとても美しく見えた。

炎上する君

人生という旅路の途中でつまずくタイプの人間は、ある意味真面目過ぎるのだと思う。

社会の暗黙のルールに疑問を持ったとしても、答えの得られない疑問は素通りして、自分が疑問を持ったことさえ忘れて生活できる人もいる。その一方で、まるで心の港にいかりがかかったかのように、答えのない疑問がいつまでも胸中に停留しているタイプの人間もいるのだ。私はどちらかというと後者の方である。
小学生の頃、なぜ人は顔を洗うのか疑問に思い、中高生の頃は化粧を始める同級生に違和感を覚えた。他人と会っても恥ずかしくないように身嗜みを整える、というのが答えなのかもしれない。だがこの答えは、「化粧をすれば恥ずかしくない見た目になるのか?」「化粧をした顔が美しいと決めたのは誰なのか?」「私は一体誰のために化粧をするのか?」という新たな問いを生み、私は迷子になった。